合同会社鐵社会福祉事務所
代表社員 鐵 宏之
はじめに
法定研修も地域ケア会議もケアプランチェックも初任者研修のテキストにも至るところに見かける「自立支援」という言葉。
この言葉を見聞きするととても気持ち悪くなるのは私だけだろうか。
私が思う「自立」「自立支援」について語っていきたい。
自立とはなにか
自立の概念として、平成16年4月20日厚生労働省社会保障審議会福祉部会において次のような資料が出されている。
https://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/04/s0420-6b.html
自立とは、「他の援助を受けずに自分の力で身を立てること」の意味であるが、 福祉分野では、人権意識の高まりやノーマライゼーションの思想の普及を背景として、 「自己決定に基づいて主体的な生活を営むこと」 「障害を持っていてもその能力を活用して社会活動に参加すること」の意味として用いられる。 |
また障害を持つ当事者として、当事者活動に携わる東京大学先端科学研究センター特任講師である熊谷晋一郎氏は、公益社団法人東京都人権啓発センターTOKYO人権第56号において「自立とは依存先を増やすこと、希望とは絶望を分かち合うこと」と自立を解釈している。
https://www.tokyo-jinken.or.jp/site/tokyojinken/tj-56-interview.html
介護保険分野では、介護保険法第4条 要介護状態になることの予防、悪化の防止といった国民の努力義務を引き合いに出し、要介護状態の改善が自立であるかのように用いられることが多い印象がある。これは自立支援型地域ケア会議や都道府県及び市区町村に対する交付金の要件にある要介護認定率の改善、保険者機能の強化といった文脈で用いられることがある。埼玉県某市では「介護保険からの卒業」を目標に、介護保険法の趣旨を逸脱した強権的な保険者機能の強化や地域ケア会議が実施されていたことを覚えている方もいるだろう。
しかし、ここまで例示した「自立」はいずれも「自立」を考える上での要素ではあるが「自立」そのものとは何か、を示している訳ではない。
では、私達自身にとって「自立」とは何かを考えてみる。そうすると「自立」という存在を感じ取ることができるかもしれない。
よくわからない概念そのもの
本コラムの読者の皆様も自分自身にとっての「自立」を考えてみてほしい。
ある者は親元からの自立、ある者は子どもからの自立、経済的な自立というものもあるだろう。
歩けること、食べれること、自己選択自己決定というものもあるだろう。
では、あなたにとっての「自立」とはそれだけだろうか。
すると、いくつもの「自立」を構成する要素が浮かんでは消える。
他者の「自立」を構成する要素を聞くことで共感できることもあれば、そうでない場合もあるだろう。
そう「自立」という言葉にははっきりとした姿形がないことに気づくのである。
「自立」に類似する言葉には、人生、安心、暮らし、生き方、歴史、幸せ、QOL、望む暮らし、日常などがある。
いずれも言葉では表現しきれない概念である。
私達一人ひとりにとっての「自立」とはかくも曖昧なものであり、それでいて確かに存在しうるものと言える。
他者の自立を支援するとは何か
私達自身にも曖昧な「自立」という存在。
それを他人である高齢者の「自立」を支援することを求められている。
高齢者1人ひとりが「自立」とは何か、を考えて生きているだろうか。
恐らくそうではないだろう。
「自立」とは生き方であり暮らしであり歴史でもあり日常である。私の自立はこうだ、と言語化できる高齢者は存在しないと思う。
すると「自立支援」がいかに荒唐無稽であるか、ということに気づく。
すると、「自立」「自立支援」という言葉をおいそれと援助において用いることはできなくなるのである。
価値観の押しつけ
法定研修、地域ケア会議、ケアプランチェック、行政職員、学者、医者、地域包括支援センター、ケアマネジャー、サービス事業所など
ありとあらゆる場面で様々な職種が「自立支援」が重要等の発言をする。
本コラムを読んでいる皆様は、発言した者に是非この言葉を投げかけてほしい。
「それってあなたの主観ですよね?」byひろゆき氏
結局のところ、「自立支援」とはその発言をした者の「価値観」でしかないのである。
価値観の押しつけという援助者が気をつけるべきことを無自覚に行ってしまっているのである。
価値観の押しつけは、押しつけられた側からすれば不快でしかなく、たまったものではない。
相手のことを知ろうとし続けること
「自立」も「自立支援」も言語化できない概念であり哲学でもあり禅問答とも言え、答えなき問いである。
しかし、「考えても分からないものだったら、意味がない」と切り捨てないでほしい。
他人の「自立」に近づこうとすることはできる。それは相手のことを知ろうとし続けることだ。
言葉、姿、表情、家、匂い、家族、仕事、友人、知人、歴史などその人を形作るすべてを少しずつでもいい。
だが分かった気になってはいけない。それは、価値観の押しつけに繋がる恐れがあるからだ。
だからこそ、知ろうとし続けること、それがきっと「自立支援」というものに近づくことなのではないかと私は思う。