現場主義だからこそ、政治の世界へ

株式会社にじむすび 代表取締役
美濃市議会議員
渡辺 暁典

   

   市民の幸せ最優先!
   介護福祉士、
   ケアマネジャー社長と
   美濃市議会議員

なぜ私が政治の世界に飛び込んだか ~自己紹介を兼ねて~

令和5年の4月の統一地方選挙に私は美濃市議会議員の候補者として立候補しました。
地域で私の存在を知っている人はほとんどいない、そのような中で2月20日に急遽、立候補の決意をしました。投開票までには2カ月ほどしか時間はありません。
急な立候補表明だったため、ご近所さんにご相談に行ったとき、「市会議員というのは、自分からなりたいと言ってなるのではなく、周りから押されてなるもんだ」と苦言を呈されたことを覚えています。
様々な方の協力をいただき、当選したのですが、今回は私の介護人生のご紹介と共に、なぜ、政治の世界に飛び込んだのかをお伝えしたいと思います。

1998年。介護保険が始まる2年前の4月。私は体育大学を卒業し、仙台市の病院に勤めることになりました。
その病院はいわゆる老人病院。そこの介護リハビリ係として入職をしました。体育大学で野球をしていた私は、てっきり自分の仕事はリハビリをする仕事だと思っていましたが、ワンフロア80名、夜間のおむつ装着率99%ほどという病院でバリバリの介護をやることになっていました。
入職して3か月は食欲もなく、カレーライスなど茶色い食べ物はオムツ交換を連想させ食べることができなかった毎日でした。
しかし、人間の慣れというものは恐ろしいもので、半年も経つと食事中に患者さんの排泄状況を話すことができるようになっていました。

介護の仕事を目指したことは一度もなかった私ですが、天職に出会ったように、毎日の仕事が楽しくて仕方ありませんでした。
仕事にも慣れ、病院の現場仕事も一人前にこなせるようになったとき、ある一言で私は目の前が真っ暗ぐらいの落ち込みをします。その言葉とは、患者さんが亡くなった時に、「今日も当たったわ」と私が発した言葉でした。仕事に慣れたからこそ、頭の中では患者さんの死までが業務になっていました。人間としてこれではダメだ!患者さん一人一人を大切にしようと心に誓いました。

病院内は医療保険の中でした。その病院は院長が介護職の地位を上げてくれ、看護師と対等な立場で議論ができる職場でした。
しかし、どれだけ頑張っても出世の道は途中で止まる。
ケアマネジャー(介護支援専門員)の資格を取った私は、介護の世界で頑張る決意をし、居宅介護支援事業所に転職しました。

居宅介護支援事業所に入社し、初めて担当となった利用者さんは、人工呼吸器をつけて、これから在宅で生活を始めようとしているALS(筋萎縮性側索硬化症)の方でした。
ケアマネジメントもわからない、在宅のサービスの利用の仕方も加算も何もわからない私が、先輩ケアマネの助けがありながらといっても、訪問診療や訪問看護などの医療保険、障害者総合支援法の前身であった支援費制度など、介護保険以外の制度を一気に覚えることになりました。
当時は、介護保険に障がいの制度である支援費制度を上乗せすることは、本当に大変で、何度も役所に出向き、説明や交渉を行い、やっと上乗せをしてもらえるような状況でした。ALSの方々は長期間の入院も簡単ではなく、特養や老健などの施設にも入所することができず、法の狭間で大変な思いをしながら生活している状況でしたので、そのような状況の生の声を聞けたことは私の介護人生を大きく変えました。

家族の事情などもあり、宮城県から生まれ育った岐阜県にUターンをしました。
もともと予定していた父との仕事が経営方針のずれから困難となり、結局私は自分で事業を始めることになりました。
宮城県で学んだALSなど在宅で医療的ケアが必要な方々への訪問介護事業をスタートしました。経営者となり、資金の工面など現実的なことを目の当たりにしたとき、このままでは支援が途切れてしまうことを実感します。ALSなどの在宅療養者に訪問介護を提供する場合、介護保険では全く時間数が足らないので、障害者総合支援法の重度訪問介護をメインとした上乗せサービスを利用することになります。
しかし、重度訪問介護の1時間単価は介護保険の訪問介護で食事の準備や掃除、買い物などを行う生活援助とほとんど単位数が同じです。人工呼吸器を装着し、喀痰吸引や経管栄養など特定医行為を行い、さらに、人工呼吸器に何かあればその場で対処しなければならないなど、高齢者への訪問介護以上に知識や技術が必要な仕事です。
しかし、移動がない、見守り時間があるなどを理由に単価を安く設定している状況は現場を実際にしている私からは、納得がいかないものばかりでした。

珍しいケースを担当して仕事をすればするほど、役所の職員や政治家と話をする機会ができました。
ALSというのは、原因がわかっていません。原因が遺伝(ごく一部はありますが)でも、感染でも生活習慣でもない状況であるならば、国民全員がいつALSになるかわかりません。
それなのに、患者さんや患者さんの家族はなぜ自分がこんな目にあわなければならないのかという思いで毎日を過ごしています。
もちろん、ALSだけではなく、たくさんの病気や先天的な障がいで悩んでいる方々がたくさんいらっしゃいます。その大切な命を社会のお荷物のように扱われてはならない、同じ日本国民として一緒に生活する社会を作らなければならない、そんな想いを仕事から得ました。
それを変えられるのは現場では限界があります。法を変えれる立場になりたい、そんな想いから政治の世界に飛び込みました。

私は弱い立場の人たちを救ってこそ政治家だと思っています。好き好んで障がい者として生活に苦労したり、貧困に悩むような人はいません。
しかし、ちょっとしたきっかけや出会いでどんな状況でも前向きになれる強い心を人間は持っていることも現場でたくさん学びました。その力は私たちにも力を与えてくれ、その力は子や孫の世代にもつながっていきます。
私がやらなきゃ誰がやる!そんな想いで政治家の道を進み始めました。皆様のお役に立てる政治家を目指して日々精進してまいります。